安寿塚あんじゅづか  下東  しもひがし3 

永保元年えいほうがんねん、今から900年前、陸奥むつの国【青森県】判官はんがんの 平正氏たいらのまさうじをこころよく思わない人々のいつわりの訴えにより、白河天皇しらかわてんのういかりを買った。彼は筑紫つくし【九州】の 安楽寺あんらくじに流され、 正氏まさうじの家族も正氏がいないさびしさに都を捨て筑紫への旅へ出るのです。 母子ははこ3人で遠い道のりです。 安寿あんじゅが16歳、 厨子王ずしおうが13歳の時でした。


旅の途中とちゅうで、越後えちごの国【新潟県】・ 直江津なおえつ山岡太夫やまおかたゆうにだまされ、母は佐渡へ売られ、 姉弟きょうだいも由良の港の 三荘太夫さんしょうたゆうに売られてしまいました。

姉は浜へ汐汲しおくみに、弟は裏山に柴刈しばかりを来る日も来る日もさせられました。二人は休むことも許されず、暗くなるまで働かされたのです。食事もまともに食べさせてもらえませんでした。そんな毎日が続くある日のこと、安寿は厨子王に話しかけました。

安寿「このままでは2人とも殺されてしまう。私のことは心配しないでおまえはおまえで逃げなさい」と、厨子王は別れしなに、姉の手を強く握りしめて、

厨子王「姉上もお体を大事に。又どこかで必ずお会いいたしましょう」と、裏山に消えて行きました。

安寿は由良川を渡りけわしい山道を逃げましたが、力つきて、村のはずれにある『かつえ坂』の池に身を投じて短い 生涯しょうがいをおえました。


厨子王は、山道をこえ 和江わえ国分寺こくぶんじに助けを求め隠れた後、 和尚おしょうと共に京の都に上り、父の 潔白けっぱく将軍しょうぐん朝廷ちょうていのお役人に認めさせました。

やがて厨子王は丹後の 国守くにのかみとして丹後に入りました。姉の行方ゆくえを探しているうち、村人から姉が死んだのを知らされ、また村人たちの苦しみを聞き、三荘太夫を丹後の国から 追放ついほうした。また、母が 佐渡さどにいることを知り、とても合いたくてたまらず佐渡を訪れました。


農家のうか片隅かたすみ盲目もうもく老婆ろうばが歌に合わせて 豆打まめうちをしてスズメをちらしていました。


安寿 恋しやほうやれほ 厨子王 恋しやほうやれほ
鳥も生あるものならば とうとう逃げよ 追わずとも・・・・・
白髪しらがのみすぼらしい衣を着たこの老婆こそが、母であった。
厨子王は思わず駆かけ寄り、老婆をかき 抱だくと「 母上様ははうえさま、厨子王です、厨子王ですよ・・。・・・」。
すると、目の見えない老婆の目から涙がポロポロとあふれ出しました。厨子王に強くすがりつき何か言わんとするが言葉になりません。

あわれな再会です。苦しかった辛かった悲しかった昔の出来事できごと2人は話し
安寿が短い生涯を終えたこと。しかし、どこからか安寿の魂は、この親子を見守っていたのであろう。
その後、姉の 冥福めいふくを祈いのって 安寿姫塚あんじゅひめづかをた建て、この親子は平安な日々を送ったのであります。

一言

安寿姫塚は今でも下東の地区に残されています。
山椒太夫 山庄太夫とも書く。

大川、神崎、由良の三を領していたことから、三荘太夫と
称した。