一本松地蔵 31  (伊佐津)

慶長五年1600年、今から400年前に今の伊佐津川に瀬替え【川の流れを変える】が行なわれました。時の藩主京極高知の頃である。

池内川は七日市、公文名の東を流れ伊佐津の粟島神社と公文名の笠水神社のほぼ中間を流れる、真黒川は十倉、京田と七日市の間を北へ流れて笠水神社の南側で高野川と合しているその辺一帯は葦(あし)のはえた沼になっていました。一度大雨が降ると川は、はんらんして一面のどろの海となり、床上浸水(ゆかうえしんすい)し家屋を流し、又田辺城までどろ水が広がりました。 そこで田辺藩では真倉川、池内川の流れを万願寺から伊佐津川の東側り、吉原から舞鶴湾に注ぐよう伊佐津川の瀬替えの計画を立てました。

そのころ、ひろく学問に通じていることで名の通っていた庄屋山口長左エ門に作業奉行【せきにんしゃ】を命じて川の工事をするように命じました。長左エ門はむずかしい工事であるので引受けることをしぶりましたが、多くの人のこまってを目の前に見ているので引受けることにした。

長左エ門には年ごろの美しい娘(むすめ)がありました。 娘は毎日昼前になると工事場で働く父親に、美味しいお弁当やお茶菓を運びました。工事には地元をはじめ、遠く、たんごの国、わかさの国方面から、かりだされた人が百数十人も働いていました。長左エ門の美しい娘のことは、たちまち彼らの間で広がりました。娘にいいよるものもあったが、娘は見むきもしなかったのです。娘がやってくると、工事がなかなか進まなかったのです。その上秋にやって来た台風で大水となり、ようやくきずきかけた堤防(ていぼうも)根こそぎ流れ、人も流されるなど工事はおくれるばかりでありました。その内、人々の間で工事現場やってくる娘のたたりではないのかと、言いだす者もいまして。ある夜、三日月のうすぐらい夜でした。長左エ門はおそくまで、工事の見まわり、用材の調べなどしていいました。そのころ、父親が工事現場でケガをしたと言ううその知らせで、藩よりかごがさしむけられ、家へ。

うそとは知らない娘はそれに乗って、工事場の河原に連れてこられました。かごをおりるや、刀で娘をきりころし川に流しました。話を聞いた長左エ門が、かけつけたときには、娘の姿はどこにもありませんでした。河原にクッキリと血の後が残ってたいだけです。昔から橋のむずかしい工事には娘を人柱をうずめることがありました。長左エ門は河原を見てなげきかなしみました。

その後、みんなは何事もなく仕事に力をだしまた。長左エ門は悲しみにたえて仕事を続けたのです。まもなく川の瀬替は完成しまた。

いつの日か、だれということなく、新しい川に悲しそうな娘の姿の幽霊(ゆうれい)が夜になると河原でみかけると、うわさになったのです。
村人たちは川の瀬替えに犠牲(ぎせい)になった娘の霊をなぐさめるため、堤防のねきに石地蔵(いしじぞう)をまつり、一本の松を植えて、ねんごろにおまつりをしました。
いつしかこの松が大きくなり、遠くからでもながめられるようになりました。伊佐津川は大きな流れとなり、村人から水害を防いだのです。
今も地蔵さんは川の流れを見つめています。