蔵王権現   (上佐波賀)
 

 むかし、 上佐羽賀かみさばかに 「蔵王権現ざおうごんげん」がありました。これは 田辺藩主たなべはんしゅ細川忠興公ほそかわただおきこうが、田辺城の 裏鬼門うらきもん(たてもののわるい方向)を祭るためにたてた、と伝えられている。そのころの田辺藩の 支配分布しはいぶんぷは、北田辺、南田辺、 城東じょうとうの三つに分けられていましたが、裏鬼門にあたる、上佐羽賀に蔵王権現をお祭りして、 大庄屋おおしょうや斉藤久左エ門さいとうきゅうざえもんに、城東(今の東舞鶴、中舞鶴ぜんちいき)のそうまとめ役としました。

 大庄屋は、それぞれの庄屋を、支配しはいして庄屋は、村人から 年貢米ねんぐまい【ぜいきん】をあつめてそれを田辺城にはこびます。それぞれの村人がおさめたねんぐを、各庄屋が 帳面ちょうめんにかきこみそれを大庄屋がまとめてお城にさしだします。お城のお殿様・細川公も年に一度は、蔵王権現におまいりします。そのいき帰えりには大庄屋・ 斉藤久左エ門さいとうきゅうざえもんの家で一休します。上佐波賀が大正十三年の大火でやけるまでは、大庄屋のやしきがのこされていました。そのやしきのざしき三段になっており、一番上段はお殿様が、二段目はけらい。三段目はおおしょうやとそのかぞくが生活しました。お殿様が一休みのときに使う うつわ茶道具ちゃどうぐは、すべて田辺藩の もん【しるし】が入っており、それらをおさめる くらがべつに一家こしらえてありました。

 一言 蔵王権現のお宮は、今も福来の宮谷神社に受け継がれている。